立花の歴史

昭和7年(1932)7月、立花村村会は、村内の七松〔ななつまつ〕・水堂〔みずどう〕境界区域への省線(現JR)東海道線新駅設置を、鉄道省に対して請願することを決議。前年の昭和6年に、東海道線京都・神戸間の電化計画が発表されると、それをきっかけとして、各地で新駅設置の請願や陳情が行なわれました。立花村もこのときに手をあげた自治体のひとつであり、おなじ大阪・西宮間の塚本・武庫川・甲子園口などと競願となりました。

昭和7年から8年にかけて、村々の間に激しい請願競争が繰り広げられます。そんななか、地元地主をよくまとめ、周到な区画整理・上水道敷設計画と多額の新駅設置寄付金を用意した立花村の運動が功を奏し、8年7月には同村内への新駅設置が確定した模様です。

こうして昭和9年7月、地元住民による請願駅である「立花駅」が誕生しました。駅用地もまた、村が用意して鉄道省に寄付したものでした。

橘土地区画整理事業

地元では新駅周辺に土地区画整理を実施し、駅の誘致費用もそこから捻出する計画をたてていました。駅の設置が決まると、地元の地主たちは橘土地区画整理組合を設立し、昭和8年11月には事業が認可され、一面の田畑だった七松・水堂・三反田〔さんたんだ〕にまたがる区域において、駅前商業地・住宅地の開発が始まります。

区画整理とは、対象地の地主たちが所有地の一部を提供し、それを道路や公園などの用地にして、これらの施設を備える整然とした市街地へと整備するものです。橘の事例のように、地主自身が組合を組織して事業を行なう場合は、提供する土地の面積やその配分、あるいは事業の経費などについて組合員が協議・決定し、換地と呼ばれる所有地の繰り替えも行ないました。橘の場合、地主が提供した土地は、もとの所有地の33%(これを減歩率と言う)に及びました。そこには道路などの公共用地として供出された部分とは別に、「替費地〔たいひち〕」と呼ばれる用地が含まれており、この売却収入が工事費・事務費や新駅設置寄付金、上水道敷設経費などにあてられました。(以上、図説 尼崎の歴史より)

立花地域写真